全ては結果論
コメンティターが何様?ぐらいの物言いをする。東北震災の時にもやたらと、もうどうにもならない事を口にする人々がいた。「こうすれば良かった。」「あぁすれば良かったのに。」いろんなワードが頭の中を駆け巡る。時既に遅し。何を言っても無駄。こんな動画を観ていた。その時歴史は動いた→「武田家滅亡の謎」「戦国最強のナンバー2 黒田官兵衛」。権力に最後には屈する。策士策に溺れる。こんな話題に関心を持って眺めていた。「安全で快適な逗子海水浴場の確保に関する条例改正案」これについての2chの市民のコメントも眺めていた。何が悪かったのか?何をすべきなのか?何が出来るのか?何も出来ないのか?何が健全で何がエゴで何が正しいのか?所詮、やはりそれも物言い。
「武田家滅亡の謎」 そのとき歴史が動いた(1/4) - YouTube
「戦国最強のナンバー2 黒田官兵衛」 - そのとき歴史が動いた(1/4) - YouTube
【傷害罪書類送検】◆逗子市民はここ!73◆【議員はいらない】
【傷害罪書類送検】◆逗子市民はここ!74◆【議員はいらない】
※ストーカー殺人の件での失態も含め。市長はリコールされてもおかしくない。
議論は何の為にあるのか?
議論など毛頭する気も無いけど、必ずや噛みついてくる人間がいる。決まって自分の事を自分のしてきた事を棚上げにしてきたような他人です。そして最終的には考えが違うとか、平行線という言葉を残し物別れに必ずなる。それになんの意味があるというのだろうか?何も出来ず何一つ変わらず、不毛な議論は疲れるだけだと思う。確かに人と議論をする事によって自分の考えがまとまったりするけど、結局のところ、なんの生産性もない。最初っからすべき話し合いや議論など無いのです。「文句があるなら自分でやれ!」が結論です。勝てば官軍。そうそう。世の中、結果論です。自分可愛さでそれなりの地位や権力を持てば、ゴリ押しで何もしない、何も出来ない大勢の他人の言葉など打ち消す事もできましょうから。
共産主義者の考え方と言われても
二の線で言えば、狡さはどこにでもあるし、それを肯定も否定も出来ない。自由競争なのだから、結果論で人は評価を受ける。等分の主張はそんな事ではない。私一人でだけではない単なる権利としての主張であったのに。正常な実力主義であるならば、そんなにも異を唱える事は無かったであろう。権力者の好みという判断基準が実力効果という恩恵に腹が立ったのだ。つまりは出来レース。ロビー活動以外の人たらしや付け届けを実力とかテクニックと思う馬鹿な経営者がこの世から一人でも居なくなれば健全な自由競争と私も認めよう。
結果論はあっても結論は無い
何を言いたいのか?具体例を提示しないまま、わからない文章を書いてますが、結果論で振り分けるなら個々を精査すべきだし、評価すべきところであるのに大雑把な区切りをしておいて人間性とか私情とか努力を持ち込む人間とは話し合う価値は無いと言いたいのです。穏便にとか、妥当とかの話し合いに結論は無い。ネットでも言い争いを度々目にするけど、その多くは認識の違いと価値観の違いです。それを互いに言い合っても結論など出るわけがないと思うところです。
馬鹿と権力者は本能寺あたりで囲まれないと気づかないと思う。
↑曲は良いと思うけど嫌いです。
持たざる者
例えば才能も実力もなく嫌われて先祖の資産だけで娯楽や趣味、貢献というしがらみを費やす者と雇用されてるだけで無為に睨まれ何の方向性も持てない者。
業だとしても自分の事だけを考えてれば良い。